2016/11/17

ネパール記(終)「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を駆け抜けて

 11月にパキスタンで予定されていたSAARC閣僚会合はカシミールにおける印パ間の緊張が高まった結果、日程未定のまま延期となり、そこで注目を浴びたのが10月にインドのゴアで開催されたBRICS会議。中国の習国家主席とインドのモディ首相による会合が行われました。今回のBRICS会議はBIMSTECと呼ばれるベンガル湾の周辺国の会議も合わせて開催され、オブザーバー国としてネパールも招待されておりました。会合終了後、中国・習国家主席、インド・モディ首相、ネパール・プラチャンダ首相の三者が空港にて鉢合わせしたことが現地の新聞記事の一面となり、これを見たネパール経済界の中枢にいる友人が「彼(プラチャンダ)は相当クレバーだね」と僕にこぼしたその言葉に、中印に挟まれた内陸国の置かれている立場が現れているような気がしています。

2016年10月17日、現地新聞一面

 ネパールは建国以来、政治経済ともにインドの影響を受け、時として内政干渉として巨大な圧力が加わります。特に、2015年は苦難の一年となり、4月の震災に加え、9月から五ヵ月間に亘って行われたインドによる経済封鎖。親中国、反インドの姿勢を頑なに崩さない理想主義者の前オリ首相は経済封鎖の解除に寄与したものの、短命内閣に終わり、退陣を余儀なくされました。代わって内閣を率いたのが内戦時の指導者の一人となる中国共産党毛沢東主義者「マオイスト」のプラチャンダ氏。この国におけるマオイストは親中でも反インドでも、反中でも親インドでもなく、バランス外交の実利主義派。ネパール有利の局面を作り上げるために、時にインドに傾き、時に中国に靡く。中国からFDIを引き出せば、自ずとインドもFDIを出す。あたかもその駆け引きを楽しむかのように。

何度も読み返した"The Lexus and the Olive Tree"

 僕が初めて原著で読んだ本にNY Timesの名コラムニスであるトーマス・フリードマン執筆の「レクサスとオリーブの木」があります。筆者は、愛知県豊田市にあるほぼ無人化されたレクサスの製造工場を「技術革新」の一面であると驚嘆を持って受け入れる一方、世界では未だに家と家の間に生えた一本のオリーブの木の所有権を巡って争いが起きている「土着の文化」が存在し、この相反する二つの文化は反発することなく、長い歳月をかけて融合していくであろうというのが筆者の提言でした。以来、僕はこの「レクサス」と「オリーブの木」の真ん中という第三の世界を探し求めるという長い旅が始まります。2007年に短期駐在を要するネパールのプロジェクトに自ら手を挙げたのもこの旅の一環でした。彼らの熱量の卒倒された僕は最後に「これからは君たちの時代。いつかまた一緒に仕事しよう」と涙を浮かべながら話したことを今でも懐かしく思い出します。

2007年駐在時、常に原点回帰の一枚

 帰国後はただひたすら自分のキャリアを積みました。そのピークは2011年の東北大震災及び福島第一原子力発電所事故に伴う放射能汚染から始まる数年間。当日、北海道の十勝帯広にいた僕は急遽呼び戻され、以来、全ての休みを返上し、仕事に没頭。産業における世代交代が起き始めたのもその頃。全ての判断に迅速さが伴う内容となり、人間的体力を要する多くの重い事案を任されるようになり。当時30歳弱。正義感も有ったのでしょう。宿命と受け入れ、全力で向き合いました。しかし、その正義感故なのか、衝突する事項も相当数あり、一部で強烈に疎まれる存在でも有りました。今思えば「もっと上手く立ち回れたのかな」と感じることもありますが、それはただ回想するだけ。多くの動きがあるなかで、最終的には与えられた職を全て差し出し、「この環境から解放して欲しい」と。

※「一帯一路」構想図

 実は重い事案を任される前に一点、各所と交わしていた内容があります。それは僕の予てからの夢であり、目標でもあった「アジアでの農場運営」を任務終了後に確実にやらせて貰いたい、と。食品はグローバルで動く産業であり、それは発展途上国優位の市場となります。「高かろう良かろう、安かろう悪かろう」が成立せず、「土着の文化」である「オリーブの木」が「技術革新」である「レクサス」を飲み込みながら加速度的に増えていく壮大なマーケット。その拠点に選んだのが、愛着のあるネパール。一方、何から着手すれば良いのか分からない僕は、2007年当時の元部下15名の故郷を二年をかけて回りました。そのときに強く感じたことは「良い素材を持っているのに、生かし切れていないな」と。こうやったら上手く行くんじゃないか、モノに価値はこう付けるんだぞ等、日本で培った全ての知恵を現場に落とし込み。そして、全くと言って良いほど手が加えられていない産地と豊かな水は周囲にある山々に射影され、他の何よりも美しい。

首都カトマンズの環状道路「リングロード」の鉄道路線計画図

 東南アジアの経済成長は南アジアに多くのポジティブな影響をもたらしました。それは中国インドに挟まれた内陸国であるネパールも例外になく。僕がいた2007年と比すると、それは天と地と言っても過言ではなく、記憶でも記録でも僕にそう伝えてくれます。近い将来、中国とインドはネパールを介して陸路で結ばれます。また、南アジアは東南アジアと接続され、そこに30億人マーケットが誕生します。歴史的に見て、内陸国であるという地政学上の不利な条件が、現代においては物流のハブになるという有利な条件に転じます。ネパールの首都カトマンズの環状道路である「リングロード」は、中国とインドを結ぶ鉄道計画に合わせて、高架の環状線の鉄道建設計画が持ち上がり、現時点で既に複数の中国企業が入札に関心を示しています。将来的には恐らくAIIB案件になるでしょう。

空から見下ろすヒマラヤ山脈、ここから先がチベット

 もちろん全てを肯定することは困難と言えます。熾烈な競争、中印の存在、第三国である難しさ、充分ではない事業環境、不確定要素の高い将来、宗教文化面、アイデンティティの確保等。特に、日本人としてどうあるべきかについては強烈に苛まされます。しかし、悩む暇を与えれくれないほど、この国は成長し、模範解答なく、世界の在り方は時代とともに変化し続けます。それに合わせて自分を成長させ、変化に耐え得る人間になることが生き抜くための前提条件且つ第一条件になるのでは、と。だからこそ、「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を見つけたような気がしたこのネパールという地を全力で駆け抜けて行きたいと思います。

ハッピーダサイン2073での一枚

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ネパール記目次
(1)ヒマラヤだけに非ず、ネパールの魅力と発展の可能性
(2)10年前の経験と10年間の変化
(3)トリブバン国際空港の限界と中国資本による空港戦略
(4)中印が同居するカトマンズ・ナイトライフ
(5)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(上)
(6)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(下)
(7)雨季の終わりを告げるダサインと家族の宗教的価値
(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合
(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史
(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

2016/11/06

ネパール記(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

 2015年4月25日、日本時間15時頃に流れたネパール大地震発生のニュース、現地映像を見た瞬間、僕は思わず声を失いました。「これはカトマンズ壊滅じゃないのか・・」と。夜にかけて徐々に被害の内容が具体的な情報として入って来ます。また中印両国ともにすぐさま援助用の軍用機を出し、ここでも繰り広げられる中印によるネパール争奪戦。インターネット上では、Facebookが恐らく自然災害で初めてその安否確認を行う"Safety Check"機能をスタート。僕はモニターに釘付け。最終的な被害はカトマンズ以北を中心に死者9,000名近くとなりました。ネパール北部を中心に家屋の倒壊があり、今尚、震災復興に向けた長い歳月を要する取り組みが行われています。

生存が確認された場合、右にある"SAFE"ボタンが表示されます

 甚大な被害が発生したものの、僕がふと感じたことが一つだけあります。食糧や医薬品を中心とした物資の配給が、物流や政治的事由から大幅に遅延しているにも関わらず、被災者による略奪行為が殆ど起きなかったということ。これは後に起きるインドによる経済封鎖において石油が輸入されてこないなか、その限られた配給に市民が正しく並ぶ姿にも重なります。ネパールという国は宗教的文化的民族的由来から、ある一定の「秩序・統制」が図られているのではないか、というこれまでの経験に基づく推測であり、その一部にカースト制度と民族間コミュニティによるポジティブな影響があるのではないかと思っています。

幸せを願う五色旗「タルチョ」、仏教由来の文化が首都カトマンズで見られます

 ネパールではヒンズー教徒の「バフン(司祭・僧侶)」、「チェトリ(王族・武士)」が上位カーストとなり、カトマンズ盆地を中心に仏教を信仰する「ネワール族」が優位民族となります。そして、この「バフン」「チェトリ」「ネワール」による社会支配が進み、前者は主にネパール広域による政治体制、後者は主に首都カトマンズでの経済環境で多くの影響を及ぼし、人口構造比では合計約4割にしか過ぎないこの三集団が、国家公務員の殆どを占めています。特に人口比率では約5%のネワール族が持つネパール経済への影響は計り知れず、彼らはインドとの交易業務を行う中心民族となります。それは何故か。カトマンズに高度な都市文明を築いたマッラ王朝の民族という歴史的理由のみならず、カースト制度が関係してきます。

周囲を標高2,500~3,000mの山々に囲まれた、ネワール族の居住地「カトマンズ盆地」

 カーストの身分制度自体は変わらないものの、その身分が社会において果たす役割が時代とともに変化するためです。主に仏教を信仰するネワール族もまたネパールにおいてはヒンズー教の影響を受け、独自のカーストを持ったうえで、ヒンズー教のカーストに組み込まれることがあります。「商人」であるネワール族は「バフン」「チェトリ」に継ぐ第三カーストに該当するも、現代社会においては、この「商人」に該当するカーストの社会的地位が高まっています。これが逆の事象で社会問題化したのが、今年春先、印ハリヤナ州で起きた「ジャート族」の暴動。主に「農民」のカーストであるジャート族は商人と同じ第三カーストに位置付けられるものの、農民の社会的地位が低まった結果、貧困となり、政府がアウトカースト・ダリット(不可触民)を教育機関の入学や公務員採用で厚遇するOBCと呼ばれる制度を「ジャート族」にも適用させることを求めました。カースト制度自体は変わらないものの、ヒンズー教圏においては、その現代社会における階級の確認が必要となります。

カトマンズで見られる職業カーストが働く光景

 一方、現代社会において変わらないものとして挙げられるのは、アウトカースト・ダリットに対する抑圧的な社会構造。その主な職業に、皮革、屠畜、清掃等があり、職業カーストと呼ばれ、それは出自において定まっています。物乞いの殆どは不可触民であり、なかには手足がなく、見るにも耐えない残酷な姿をしている者もいます。また男女格差や識字率の低さは深刻で、特に後者は南アジア最低レベルの数字となっており、これは、特筆すべき資源がなく、また地理的条件から経済的に貧困であり、学校に通えない子供が多く存在するからでしょう。国民による幅広いマオイストへの支持というのはこれら大小様々な不平等社会に起因し、抑圧的な社会からの解放を求めました。男女格差については、招待された食事の席で男性が常に先に食事を済まし、その間、女性は給仕に徹する光景を見るたびに痛感し、一方、それを違和感なく受け入れ、文化の尊重と、女性に対し、日本と同等の考え方を要求しないよう細心の注意を払う必要があります。

英語を話す現地の小学校低学年の生徒


 カースト制度については多くの外国人を苦しめるものになるでしょう。それは歴史とともに構造の変化が行われ、また、地域やコミュニティによってその在り方が異なります。近年、下位カーストでも富裕層が出現しておりますが、確率論では引き続き低く、王権を中心に見た支配・被支配の構造が社会において普遍的な役割を維持しています。それは民族によって階級が変わってくるものでもあり、そのなかで多民族は一つの国家で共存し合っています。一方、2006年の内戦終了から約10年が経過したいま、この国に平和が訪れ始めています。内戦に苦しんだ世代は自分たちの子供により良い教育機会を与えようと努力をし、子供たちは小さい頃から必死に英語を学んでいます。親の仕事を手伝っている貧困層の子供でもその合間に英語のテキストを開き、宿題をしています。充分ではないものの、ネパールという国に「教育」という概念が幅広く普及しつつあるのを見ると、それは「自由」と「選択」を与える新しい国家に変わっていくのではないかという期待を僕に抱かせてくれます。

 尚、本記、カースト制度とエスニシティの考察(上)~(下)については、あくまで筆者独自の見解となること、予めご了承願います。


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ネパール記目次
(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史
(終)「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を駆け抜けて