2016/10/31

ネパール記(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史

 2015年9月、インド政府は非公式にネパールとの国境を封じる「経済封鎖」を実行しました。新憲法制定に対する内政干渉の一環で行われ、内陸国であるネパールは以降、約5ヵ月間に亘り、石油やガス等の輸入が為されず、同年に起きた大地震とともに経済に対して多大なる影響を及ぼしました。インド政府は国境を面するネパール南部「タライ」平原に住む「マデシ」の権利要求をネパールに対し行い、憲法改正を促すこととなりました。反インドの姿勢を崩さない前オリ首相が最終的には一部改正に応じることで2016年1月に経済封鎖の解除に繋げたものの、国内では若者を中心に「BackOffIndia(インドに帰れ)」キャンペーンがSNS上で一斉に行われ、ネパール国内の反印感情は今まで以上に高まりました。

サッカー南アジアカップ決勝にてインドをPKで倒し、狂喜する若者

 ネパールとインドの対立関係は、18世紀、アジアの香辛料貿易を行ったイギリス東インド会社の統治時代後期にまで遡ります。当時のインドは数百の王朝による群雄割拠の時代、支配・被支配が繰り広げられる王朝制度がヒンズー教由来の階級思想をより強め、エスニシティ(民族)の優劣の序列が次第に決定されていきます。英国から赴任をしてくる総督がその統治に腐心するほど多くの土着民族が同居するため、貿易業務の確立を超えて軍隊やそのガバナンスの強化に乗り出す必要がありました。その一つが、ヒンズー教の生活規範になるマヌ法典に規定される身分制度に過ぎなかった「ヴァルナ」の積極的利用となり、その呼称は先にインドに進出していたポルトガル(語)より「カースト」と呼ばれます。

参照元:http://web.joumon.jp.net/blog/2007/09/316.html

 当時は、イギリス東インド会社による王朝への統治、そして王朝による市民への「カースト」統治の二重構造となり、土着の文化とその管轄範囲の広域さが故、イギリス東インド会社は王朝に多くの権限を与える二重構造のみ、その統治が可能であったと言われています。その王朝の中心に君臨したのはデリーを首都とするムガル帝国。一方、そのムガル帝国の存在を脅かす国がありました。ゴルカ・ネパール王国です。王国の支配は北インドにまで及び、デリーに隣接するアワド朝まで征服する勢いとなりました。インド統治への影響を恐れたイギリス東インド会社は大量の傭兵(セポイ)を従え、ネパール王国に侵攻、軍の勢力をカトマンズにまで後退させることに成功します。




いまのネパールの領土は1815年に英国と締結された「スガウリ協定」によって定められ、北インドやシッキム、ダージリンを譲渡することとなり、英国の保護国下に置かれました。その一連の戦いのなかで山岳民族として戦闘能力の高さと勇敢さを変われ、ゴルカ・ネパール王国の軍隊はイギリス東インド会社の傭兵となり、後に英国の軍隊に加わる「グルカ兵」となります。また「グルカ兵」が重宝されたのは、仏教の影響を受けるため、インドのヒンズー教徒より宗教上の制約が少なく、文化的柔軟性があったことが挙げられます。そして、イギリス東インド会社の統治に不満を多く持った群衆が立ち上がり、「セポイの乱」が起きることで状況は一変。最終的にはムガル帝国を中心とするインド側はその乱に敗れるも、イギリス東インド会社統治の終焉を呼び、後の英国からの独立に繋がる重要な分岐点となります。その「セポイの乱」にインド・ムガル帝国側ではなく、イギリス東インド会社側に加わった当時唯一の独立国がネパール王国となり、その歴史が現在のインド・ネパールの対立関係の一つの要因となり、インドによるネパールの支配欲を助長したと見ています。

カトマンズのネワール族地区にある仏教寺院

 では、ネパール王国の前身となったゴルカ王朝はどのような歴史に基づくのか。なぜネパールを統一出来たのか。それはカトマンズ盆地を中心に繁栄するマッラ王朝を征服した18世紀以降、その影響力が拡大したと言われています。そのマッラ王朝は高度な都市文明を築くカトマンズ盆地の民族「ネワール族」の王朝であり、ゴルカ王朝はその文化を受け継ぎ、首都をカトマンズに置きました。そして、そのネワール族はヒンズー教に影響を受けた独自の仏教を信仰する民族であり、カトマンズに今尚強い影響を及ぼしています。この観点から、いまのネパールは上位カーストである「バフン(司祭・僧侶)」、「チェトリ(王族・武士)」と、エスニシティ(民族)である「ネワール」の三つが支配する社会構造になっています。


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ネパール記目次
(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合
(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

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