2016/12/30

手綱引かれる南アジア(上)歴史考察とカシミール問題

 ヒマラヤ山脈を切り開き、チベットと新疆ウイグル自治区から、前者はネパールを後者はカシミール地方を経由し、インド洋に出る鉄道が建設される。バングラデシュとミャンマーの国境がシームレスになり、東南アジアと経済回廊で接続され中国と合わせて人口30億人マーケットが誕生する。中央アジアからのエネルギー・パイプラインがアフガニスタンを経由し印パに届き、同時にインフラが整備される。スリランカは港湾開発が積極的に行われ、東アフリカや中東にもリーチ可能な第二のシンガポールになる。大半が現段階で工事着工、予算承認、プロジェクト合意の状況となっており、これが10年、20年後に描かれている南アジアの未来予想図となります。そして、これらの実現可能性は中国の「一帯一路」構想とロシアのエネルギー政策に大きく依存する形となり、南アジアは単体の地域経済圏として生き残ることは困難であると考えています。

 マレーシアのマハティール氏、シンガポールのリー・クアンユー氏等、強烈なリーダーシップを発揮することで、1997年のアジア通貨危機からの回復、そしてASEANという経済地域の発展的成長、アジアのみならず、いままさに世界経済のエンジンとなりつつ有る東南アジアとは異なり、南アジアは17世紀、イギリス東インド会社の統治から始まる英国の植民地政策の影響を今尚、色濃く受けています。1947年、英国はイギリス領インド帝国(以下、「英印」)の解体に合わせて、英印にあった500以上の藩王国に対して、インド若しくはパキスタンどちらかへの帰属を求めることになりました。その両国は「印パ戦争」という形で激しく軍事衝突し、1971年の第三次印パ戦争は、「東パキスタンの独立」、すなわちバングラデシュ国の誕生に繋がり、核保有を行いながら、印パは軍事的に強く牽制し合っています。

 印パ以外にも多くの内戦、民族紛争の歴史を南アジアでは見ることが出来ます。記憶に新しいところでは、1980年代に始まったスリランカでの内戦。北部のタミル人に対し抑圧的な政策を取ったスリランカ政府との間で激しい衝突が約20年以上あり、特に内戦が激しくなった2000年代では当時の大統領ラージャパクサ政権と距離が近い中国の支援を受け、両国の関係は緊密となりました。結果として中国はコロンボの港湾開発を一括受注し、「一帯一路」構想下、スリランカはインド洋における最重要拠点となっています。ネパールでも同様、1990年代から10年以上の内戦があり、市民側を指揮した中国共産党毛沢東主義派である「マオイスト」からは「人民戦争」と呼ばれ、ネパールの現政権はマオイストのプラチャンダ氏であることから今尚、中国の強い影響を受けています。2015年9月から五ヶ月間に亘って行われたインドによる経済封鎖においては、石油ガスの提供と開港の協定が締結され、中国による対ネパール投資が加速されました。

 域内総人口17億人、うち12.5億人をインドが占める南アジアでは脱インド依存が予てから積極的に行われております。実質、インドの保護国下にあるブータンを除き、バングラデシュパキスタンスリランカネパールモルディブでは既に最大の貿易パートナーが中国になっており、また南アジアの域内経済協力協定であるSAARCに最後に加盟したアフガニスタンも中央アジアと接続される唯一の南アジアであり、且つ新疆ウイグル自治区に隣接される国であることから近年、ロシア・中国との経済連携を強化しています。各国の経済状況に関しては、世界銀行の「南アジアが世界一の急成長地域に 成長持続には民間投資の喚起が必要」を参照して頂きたいが、内需をより重視することで保護貿易に傾倒し、且つ南アジアの構成国に対して平等外交を行わないインドに対し、開発ドナー国として構成国への影響力を高める中国、そして人口増大伴うエネルギー不足が印パ内で危惧されるなかで、その供給源となるロシアによる二国によって、この地域の未来は支配されていると言っても過言では有りません。

 南アジアの紛争の歴史はヒマラヤ山脈麓、印パにまたがる地域であるカシミールに集約されるでしょう。英印の解体に伴い、インドに帰属したカシミール藩王国は王がヒンズー教徒、国民がイスラム教徒となり、宗教上のねじれが生じたままいまのカシミール紛争に繋がっています。特に、インドの実効支配が続く「ジャンム・カシミール州」では国境沿いでパキスタンとの数多くの軍事衝突が起きており、特に今年はカシミールの分離独立組織の青年ワニ氏の殺害に起因する衝突は2008年以来、最大の死者を生みました。イスラム過激派やカシミール分離独立派によるテロ活動が終わることは有りませんが、核の行使に繋がる「第四次印パ戦争」は起こることはないと言って良いでしょう。南アジアは中国とロシアによって手綱が引かれているためです。それはカシミール地域を通過し、インド洋に出る中国・パキスタン経済回廊CPECも例外では有りません。

2016/11/17

ネパール記(終)「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を駆け抜けて

 11月にパキスタンで予定されていたSAARC閣僚会合はカシミールにおける印パ間の緊張が高まった結果、日程未定のまま延期となり、そこで注目を浴びたのが10月にインドのゴアで開催されたBRICS会議。中国の習国家主席とインドのモディ首相による会合が行われました。今回のBRICS会議はBIMSTECと呼ばれるベンガル湾の周辺国の会議も合わせて開催され、オブザーバー国としてネパールも招待されておりました。会合終了後、中国・習国家主席、インド・モディ首相、ネパール・プラチャンダ首相の三者が空港にて鉢合わせしたことが現地の新聞記事の一面となり、これを見たネパール経済界の中枢にいる友人が「彼(プラチャンダ)は相当クレバーだね」と僕にこぼしたその言葉に、中印に挟まれた内陸国の置かれている立場が現れているような気がしています。

2016年10月17日、現地新聞一面

 ネパールは建国以来、政治経済ともにインドの影響を受け、時として内政干渉として巨大な圧力が加わります。特に、2015年は苦難の一年となり、4月の震災に加え、9月から五ヵ月間に亘って行われたインドによる経済封鎖。親中国、反インドの姿勢を頑なに崩さない理想主義者の前オリ首相は経済封鎖の解除に寄与したものの、短命内閣に終わり、退陣を余儀なくされました。代わって内閣を率いたのが内戦時の指導者の一人となる中国共産党毛沢東主義者「マオイスト」のプラチャンダ氏。この国におけるマオイストは親中でも反インドでも、反中でも親インドでもなく、バランス外交の実利主義派。ネパール有利の局面を作り上げるために、時にインドに傾き、時に中国に靡く。中国からFDIを引き出せば、自ずとインドもFDIを出す。あたかもその駆け引きを楽しむかのように。

何度も読み返した"The Lexus and the Olive Tree"

 僕が初めて原著で読んだ本にNY Timesの名コラムニスであるトーマス・フリードマン執筆の「レクサスとオリーブの木」があります。筆者は、愛知県豊田市にあるほぼ無人化されたレクサスの製造工場を「技術革新」の一面であると驚嘆を持って受け入れる一方、世界では未だに家と家の間に生えた一本のオリーブの木の所有権を巡って争いが起きている「土着の文化」が存在し、この相反する二つの文化は反発することなく、長い歳月をかけて融合していくであろうというのが筆者の提言でした。以来、僕はこの「レクサス」と「オリーブの木」の真ん中という第三の世界を探し求めるという長い旅が始まります。2007年に短期駐在を要するネパールのプロジェクトに自ら手を挙げたのもこの旅の一環でした。彼らの熱量の卒倒された僕は最後に「これからは君たちの時代。いつかまた一緒に仕事しよう」と涙を浮かべながら話したことを今でも懐かしく思い出します。

2007年駐在時、常に原点回帰の一枚

 帰国後はただひたすら自分のキャリアを積みました。そのピークは2011年の東北大震災及び福島第一原子力発電所事故に伴う放射能汚染から始まる数年間。当日、北海道の十勝帯広にいた僕は急遽呼び戻され、以来、全ての休みを返上し、仕事に没頭。産業における世代交代が起き始めたのもその頃。全ての判断に迅速さが伴う内容となり、人間的体力を要する多くの重い事案を任されるようになり。当時30歳弱。正義感も有ったのでしょう。宿命と受け入れ、全力で向き合いました。しかし、その正義感故なのか、衝突する事項も相当数あり、一部で強烈に疎まれる存在でも有りました。今思えば「もっと上手く立ち回れたのかな」と感じることもありますが、それはただ回想するだけ。多くの動きがあるなかで、最終的には与えられた職を全て差し出し、「この環境から解放して欲しい」と。

※「一帯一路」構想図

 実は重い事案を任される前に一点、各所と交わしていた内容があります。それは僕の予てからの夢であり、目標でもあった「アジアでの農場運営」を任務終了後に確実にやらせて貰いたい、と。食品はグローバルで動く産業であり、それは発展途上国優位の市場となります。「高かろう良かろう、安かろう悪かろう」が成立せず、「土着の文化」である「オリーブの木」が「技術革新」である「レクサス」を飲み込みながら加速度的に増えていく壮大なマーケット。その拠点に選んだのが、愛着のあるネパール。一方、何から着手すれば良いのか分からない僕は、2007年当時の元部下15名の故郷を二年をかけて回りました。そのときに強く感じたことは「良い素材を持っているのに、生かし切れていないな」と。こうやったら上手く行くんじゃないか、モノに価値はこう付けるんだぞ等、日本で培った全ての知恵を現場に落とし込み。そして、全くと言って良いほど手が加えられていない産地と豊かな水は周囲にある山々に射影され、他の何よりも美しい。

首都カトマンズの環状道路「リングロード」の鉄道路線計画図

 東南アジアの経済成長は南アジアに多くのポジティブな影響をもたらしました。それは中国インドに挟まれた内陸国であるネパールも例外になく。僕がいた2007年と比すると、それは天と地と言っても過言ではなく、記憶でも記録でも僕にそう伝えてくれます。近い将来、中国とインドはネパールを介して陸路で結ばれます。また、南アジアは東南アジアと接続され、そこに30億人マーケットが誕生します。歴史的に見て、内陸国であるという地政学上の不利な条件が、現代においては物流のハブになるという有利な条件に転じます。ネパールの首都カトマンズの環状道路である「リングロード」は、中国とインドを結ぶ鉄道計画に合わせて、高架の環状線の鉄道建設計画が持ち上がり、現時点で既に複数の中国企業が入札に関心を示しています。将来的には恐らくAIIB案件になるでしょう。

空から見下ろすヒマラヤ山脈、ここから先がチベット

 もちろん全てを肯定することは困難と言えます。熾烈な競争、中印の存在、第三国である難しさ、充分ではない事業環境、不確定要素の高い将来、宗教文化面、アイデンティティの確保等。特に、日本人としてどうあるべきかについては強烈に苛まされます。しかし、悩む暇を与えれくれないほど、この国は成長し、模範解答なく、世界の在り方は時代とともに変化し続けます。それに合わせて自分を成長させ、変化に耐え得る人間になることが生き抜くための前提条件且つ第一条件になるのでは、と。だからこそ、「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を見つけたような気がしたこのネパールという地を全力で駆け抜けて行きたいと思います。

ハッピーダサイン2073での一枚

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ネパール記目次
(1)ヒマラヤだけに非ず、ネパールの魅力と発展の可能性
(2)10年前の経験と10年間の変化
(3)トリブバン国際空港の限界と中国資本による空港戦略
(4)中印が同居するカトマンズ・ナイトライフ
(5)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(上)
(6)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(下)
(7)雨季の終わりを告げるダサインと家族の宗教的価値
(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合
(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史
(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

2016/11/06

ネパール記(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

 2015年4月25日、日本時間15時頃に流れたネパール大地震発生のニュース、現地映像を見た瞬間、僕は思わず声を失いました。「これはカトマンズ壊滅じゃないのか・・」と。夜にかけて徐々に被害の内容が具体的な情報として入って来ます。また中印両国ともにすぐさま援助用の軍用機を出し、ここでも繰り広げられる中印によるネパール争奪戦。インターネット上では、Facebookが恐らく自然災害で初めてその安否確認を行う"Safety Check"機能をスタート。僕はモニターに釘付け。最終的な被害はカトマンズ以北を中心に死者9,000名近くとなりました。ネパール北部を中心に家屋の倒壊があり、今尚、震災復興に向けた長い歳月を要する取り組みが行われています。

生存が確認された場合、右にある"SAFE"ボタンが表示されます

 甚大な被害が発生したものの、僕がふと感じたことが一つだけあります。食糧や医薬品を中心とした物資の配給が、物流や政治的事由から大幅に遅延しているにも関わらず、被災者による略奪行為が殆ど起きなかったということ。これは後に起きるインドによる経済封鎖において石油が輸入されてこないなか、その限られた配給に市民が正しく並ぶ姿にも重なります。ネパールという国は宗教的文化的民族的由来から、ある一定の「秩序・統制」が図られているのではないか、というこれまでの経験に基づく推測であり、その一部にカースト制度と民族間コミュニティによるポジティブな影響があるのではないかと思っています。

幸せを願う五色旗「タルチョ」、仏教由来の文化が首都カトマンズで見られます

 ネパールではヒンズー教徒の「バフン(司祭・僧侶)」、「チェトリ(王族・武士)」が上位カーストとなり、カトマンズ盆地を中心に仏教を信仰する「ネワール族」が優位民族となります。そして、この「バフン」「チェトリ」「ネワール」による社会支配が進み、前者は主にネパール広域による政治体制、後者は主に首都カトマンズでの経済環境で多くの影響を及ぼし、人口構造比では合計約4割にしか過ぎないこの三集団が、国家公務員の殆どを占めています。特に人口比率では約5%のネワール族が持つネパール経済への影響は計り知れず、彼らはインドとの交易業務を行う中心民族となります。それは何故か。カトマンズに高度な都市文明を築いたマッラ王朝の民族という歴史的理由のみならず、カースト制度が関係してきます。

周囲を標高2,500~3,000mの山々に囲まれた、ネワール族の居住地「カトマンズ盆地」

 カーストの身分制度自体は変わらないものの、その身分が社会において果たす役割が時代とともに変化するためです。主に仏教を信仰するネワール族もまたネパールにおいてはヒンズー教の影響を受け、独自のカーストを持ったうえで、ヒンズー教のカーストに組み込まれることがあります。「商人」であるネワール族は「バフン」「チェトリ」に継ぐ第三カーストに該当するも、現代社会においては、この「商人」に該当するカーストの社会的地位が高まっています。これが逆の事象で社会問題化したのが、今年春先、印ハリヤナ州で起きた「ジャート族」の暴動。主に「農民」のカーストであるジャート族は商人と同じ第三カーストに位置付けられるものの、農民の社会的地位が低まった結果、貧困となり、政府がアウトカースト・ダリット(不可触民)を教育機関の入学や公務員採用で厚遇するOBCと呼ばれる制度を「ジャート族」にも適用させることを求めました。カースト制度自体は変わらないものの、ヒンズー教圏においては、その現代社会における階級の確認が必要となります。

カトマンズで見られる職業カーストが働く光景

 一方、現代社会において変わらないものとして挙げられるのは、アウトカースト・ダリットに対する抑圧的な社会構造。その主な職業に、皮革、屠畜、清掃等があり、職業カーストと呼ばれ、それは出自において定まっています。物乞いの殆どは不可触民であり、なかには手足がなく、見るにも耐えない残酷な姿をしている者もいます。また男女格差や識字率の低さは深刻で、特に後者は南アジア最低レベルの数字となっており、これは、特筆すべき資源がなく、また地理的条件から経済的に貧困であり、学校に通えない子供が多く存在するからでしょう。国民による幅広いマオイストへの支持というのはこれら大小様々な不平等社会に起因し、抑圧的な社会からの解放を求めました。男女格差については、招待された食事の席で男性が常に先に食事を済まし、その間、女性は給仕に徹する光景を見るたびに痛感し、一方、それを違和感なく受け入れ、文化の尊重と、女性に対し、日本と同等の考え方を要求しないよう細心の注意を払う必要があります。

英語を話す現地の小学校低学年の生徒


 カースト制度については多くの外国人を苦しめるものになるでしょう。それは歴史とともに構造の変化が行われ、また、地域やコミュニティによってその在り方が異なります。近年、下位カーストでも富裕層が出現しておりますが、確率論では引き続き低く、王権を中心に見た支配・被支配の構造が社会において普遍的な役割を維持しています。それは民族によって階級が変わってくるものでもあり、そのなかで多民族は一つの国家で共存し合っています。一方、2006年の内戦終了から約10年が経過したいま、この国に平和が訪れ始めています。内戦に苦しんだ世代は自分たちの子供により良い教育機会を与えようと努力をし、子供たちは小さい頃から必死に英語を学んでいます。親の仕事を手伝っている貧困層の子供でもその合間に英語のテキストを開き、宿題をしています。充分ではないものの、ネパールという国に「教育」という概念が幅広く普及しつつあるのを見ると、それは「自由」と「選択」を与える新しい国家に変わっていくのではないかという期待を僕に抱かせてくれます。

 尚、本記、カースト制度とエスニシティの考察(上)~(下)については、あくまで筆者独自の見解となること、予めご了承願います。


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ネパール記目次
(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史
(終)「レクサス」と「オリーブの木」のど真ん中を駆け抜けて

2016/10/31

ネパール記(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史

 2015年9月、インド政府は非公式にネパールとの国境を封じる「経済封鎖」を実行しました。新憲法制定に対する内政干渉の一環で行われ、内陸国であるネパールは以降、約5ヵ月間に亘り、石油やガス等の輸入が為されず、同年に起きた大地震とともに経済に対して多大なる影響を及ぼしました。インド政府は国境を面するネパール南部「タライ」平原に住む「マデシ」の権利要求をネパールに対し行い、憲法改正を促すこととなりました。反インドの姿勢を崩さない前オリ首相が最終的には一部改正に応じることで2016年1月に経済封鎖の解除に繋げたものの、国内では若者を中心に「BackOffIndia(インドに帰れ)」キャンペーンがSNS上で一斉に行われ、ネパール国内の反印感情は今まで以上に高まりました。

サッカー南アジアカップ決勝にてインドをPKで倒し、狂喜する若者

 ネパールとインドの対立関係は、18世紀、アジアの香辛料貿易を行ったイギリス東インド会社の統治時代後期にまで遡ります。当時のインドは数百の王朝による群雄割拠の時代、支配・被支配が繰り広げられる王朝制度がヒンズー教由来の階級思想をより強め、エスニシティ(民族)の優劣の序列が次第に決定されていきます。英国から赴任をしてくる総督がその統治に腐心するほど多くの土着民族が同居するため、貿易業務の確立を超えて軍隊やそのガバナンスの強化に乗り出す必要がありました。その一つが、ヒンズー教の生活規範になるマヌ法典に規定される身分制度に過ぎなかった「ヴァルナ」の積極的利用となり、その呼称は先にインドに進出していたポルトガル(語)より「カースト」と呼ばれます。

参照元:http://web.joumon.jp.net/blog/2007/09/316.html

 当時は、イギリス東インド会社による王朝への統治、そして王朝による市民への「カースト」統治の二重構造となり、土着の文化とその管轄範囲の広域さが故、イギリス東インド会社は王朝に多くの権限を与える二重構造のみ、その統治が可能であったと言われています。その王朝の中心に君臨したのはデリーを首都とするムガル帝国。一方、そのムガル帝国の存在を脅かす国がありました。ゴルカ・ネパール王国です。王国の支配は北インドにまで及び、デリーに隣接するアワド朝まで征服する勢いとなりました。インド統治への影響を恐れたイギリス東インド会社は大量の傭兵(セポイ)を従え、ネパール王国に侵攻、軍の勢力をカトマンズにまで後退させることに成功します。




いまのネパールの領土は1815年に英国と締結された「スガウリ協定」によって定められ、北インドやシッキム、ダージリンを譲渡することとなり、英国の保護国下に置かれました。その一連の戦いのなかで山岳民族として戦闘能力の高さと勇敢さを変われ、ゴルカ・ネパール王国の軍隊はイギリス東インド会社の傭兵となり、後に英国の軍隊に加わる「グルカ兵」となります。また「グルカ兵」が重宝されたのは、仏教の影響を受けるため、インドのヒンズー教徒より宗教上の制約が少なく、文化的柔軟性があったことが挙げられます。そして、イギリス東インド会社の統治に不満を多く持った群衆が立ち上がり、「セポイの乱」が起きることで状況は一変。最終的にはムガル帝国を中心とするインド側はその乱に敗れるも、イギリス東インド会社統治の終焉を呼び、後の英国からの独立に繋がる重要な分岐点となります。その「セポイの乱」にインド・ムガル帝国側ではなく、イギリス東インド会社側に加わった当時唯一の独立国がネパール王国となり、その歴史が現在のインド・ネパールの対立関係の一つの要因となり、インドによるネパールの支配欲を助長したと見ています。

カトマンズのネワール族地区にある仏教寺院

 では、ネパール王国の前身となったゴルカ王朝はどのような歴史に基づくのか。なぜネパールを統一出来たのか。それはカトマンズ盆地を中心に繁栄するマッラ王朝を征服した18世紀以降、その影響力が拡大したと言われています。そのマッラ王朝は高度な都市文明を築くカトマンズ盆地の民族「ネワール族」の王朝であり、ゴルカ王朝はその文化を受け継ぎ、首都をカトマンズに置きました。そして、そのネワール族はヒンズー教に影響を受けた独自の仏教を信仰する民族であり、カトマンズに今尚強い影響を及ぼしています。この観点から、いまのネパールは上位カーストである「バフン(司祭・僧侶)」、「チェトリ(王族・武士)」と、エスニシティ(民族)である「ネワール」の三つが支配する社会構造になっています。


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ネパール記目次
(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合
(10)カースト制度とエスニシティの考察(下)現代社会での役割

2016/10/26

ネパール記(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合

 2007年の春、ネパール駐在を迎える前にクライアントであるボスとともに臨んだ採用面接を今でも良く思い出します。カトマンズ大学の成績優秀者20名を面接し、15名を採用する作業。一人当たり30分×20人の10時間を僅か一日でやり切るという過酷な内容。当時のネパールは約15年近く続いた「人民戦争」の内戦が終了した翌年。衆愚政治に走る国王側とそれを解放する「マオイスト」による抗戦であり、一説では国土の約8割を掌握したとされています。マオイストはカースト制度からの「解放」も合わせて謳っており、それは経済の自立が困難であり、貧困に喘ぐ当時のネパールの国民の大多数の支持を得ていたのであろう、と今になって思います。そして、当時のマオイスト側の指導者が現在のネパールの首相プラチャンダ氏となります。

仕事の手伝いの合間に勉強する現地の小学生

 カースト制度というのは何なのか。この国に関わるようになってから、幾度も考えました。そして、ようやくその最初の答えが分かってきたような気がします。それは「ネパール人が思っている以上に社会において機能しているヒンズー教由来の身分制度」であり、且つ、「家族主義のなかで数百年数千年続く古来のコミュニティ」であるということ。例えばダサインのような祭事でそれらは次の世代に引き継がれます。カースト制度は「バラモン(司祭・僧侶)」、「クシャトリア(王族・武士)」、「バイシア(平民)」、「シュードラ(隷属)」となり、このカーストに入ることの出来ない身分を「ダリット(不可触民)」と呼びます。制度面では同じであるものの、ネパールでは前者二つを「バフン」「チェトリ」と呼び、それぞれ上位カーストに当たります。

ネパール南部では印デリーがその圏内に入って来ます

 カースト制度が非常に分かり難いのは主に二点。一つ目は身分制度の上位下位は長年の歴史のなかで決められたものであり、明確に定まっているものではないということ。二つ目はカーストの比較が厳密に出来るのは同一民族内であり、民族にも優劣(支配被支配)があるため、同じカーストでも民族が異なると社会において果たす役割が変わってくるということ。エスニシティはカースト制度のなかに組み込まれて議論がされがちですが、基本的には似て非なるものです。特にネパールにおいては、数十の民族が有るなかで、その系統として、南部は「インド・アーリア系」、北部は「チベット系」となっており、後者が信仰する主な宗教は、本来「カースト制度」が存在しないはずの仏教です。しかし、数百年の歴史を経て、仏教はヒンズー教の影響を受け、カースト制度が一部存在。その習合がこの国の特徴となり、固有の文化と言えるでしょう。

南部ではインドルピーの流通も盛んです

 幾つか事例を出します。ヒンズー教徒にとってアルコールの摂取は「宗教上禁忌行為」に近く(酔った状態では、肉の種類の判断が付かなくなるためという諸説あり)、子は親の前で、女性は男性の前でお酒を飲むことはまずありません。この傾向は特に南部で強まります。しかし、本来、アルコールを愉しむ仏教徒においても「禁忌行為」と取る民族があり、これは宗教由来ではなく、ヒンズー教の影響を受けた「文化由来」となります。また「チベット系」の民族が必ずしも仏教を信仰しているとは限りません。ヒンズー教に改宗した民族もあり、また同一民族のなかで住む場所や属しているコミュニティによって「ヒンズー教徒」と「仏教徒」に分かれる場合があります。ヒンズー教の祭事である「ダサイン」を祝う「仏教徒」もおり、その姿かたちは一つの物差しでは決して図ることの出来ない複雑さを持ち合わせています。

ダサイン後、帰省でごった返すバスのなか

 但し、「ヒンズー教」と「仏教」が習合するこのネパールにおいて、共通の文化が三つあります。一つ目は男系を中心とした「家族主義」であること。特に目上の者や男性に対する敬いの精神はとても強く、このような精神は社会において上位下位を作りやすくします。二つ目は同一カーストや同一エスニシティでグループを作ることが多く、それを超えたコミュニケーションが極めて少ないということ。例えば僕を媒介にしてそれぞれ別のカーストやエスニシティは交流はしますが、不在の場合の直接のコミュニケーションを避ける傾向にあります。三つ目は、「階級意識」がとても強く、上位の下位に対する支配意識だけではなく、中位の下位に対するものも存在するということ。これが文中、「ネパール人が思っている以上に機能しているヒンズー教由来の身分制度」と綴ったその理由となり、カースト制度に影響され、エスニシティでも同様の考え方が存在します。この三つに関してはインドと比較的同じものになり、絶対的経典を持たない土着信仰であるヒンズー教の強さと言えます。

南部ではこのようにインドとの国境線が目の前にあります

 周りの日本人に事業上、最大の障害を頻繁に聞かれますが、僕は迷わず「カースト制度」と「エスニシティ」を挙げており、正しく受け入れるためにも、歴史や文化、宗教、民族、これらの理解は必要不可欠となるでしょう。


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ネパール記目次
(7)雨季の終わりを告げるダサインと家族の宗教的価値
(9)カースト制度とエスニシティの考察(中)対印関係の歴史

2016/10/12

ネパール記(7)雨季の終わりを告げるダサインと家族の宗教的価値

 多民族国家であるネパールにおいて、数少ない国民共通の祭事が「ダサイン」であり、それは稲の収穫を迎える9月末から10月上旬にかけて約10日間の日程で行われるヒンズー教徒を中心とした祭りになります。今年は気候変動の影響を受け雨季が長引くものの、例年通り、ダサインとともにその終わりを告げ、 彩り豊かな景色が目を輝かせてくれます。


 ヒンズー教の特徴として、真っ先に挙げられるのは絶対的な経典を持たない土着信仰の民族宗教にあることかと思います。その宗教的思想は部族やカースト間によって何百年、何千年を経て今尚変わらないものとなり、中心となるのは「家族・血縁主義」であり、基本的には、男系によって受け継がれています。また、信仰する神や食する動物が異なる等、部族やカーストにおいて多様な形態を取っていることも特徴と言えるでしょう。そして今年もその季節に合わせて帰省ラッシュとなり、約220万人もの国民が首都カトマンズを離れ、それぞれの故郷に向かったようです。


 信仰の対象として牛を聖視しながらも、水牛を食べる文化があるのも、このダサインに関係します。ヒンズー教はヴィシュヌ神、シヴァ神、ブラフマー神の三大神があるなかで、ダサインはシヴァ神の女神とされるドゥルガによって水牛に変化した阿修羅の退治を祝うお祭りであるため、水牛は邪悪なものとする習わしが現在でも残っているためです。そして、このドゥルガ女神に山羊やアヒル、鶏などが生贄として犠牲にされるものの、その残虐行為が国際社会の批判の的になり、近年自制傾向にあります。これは文化に対する一方的な圧力というものではなく、今や世界各地に「労働者」として点在するネパール人が外国文化から受けた影響と、自国をより格式高い国にしたいというその想いからだと僕は理解しています。

スマートフォン越しに外国にいる孫と話す祖父
 
ネパールでは1990年代前半から約15年にかけて内戦が行われました。ネパール政府とマオイストによる紛争です。マオイストは一時期国土の約8割を掌握していたとされていますが、その数字に対する是非よりも、その内戦期において働き場のない若者の多くは外国に出ざるを得ず、結果として今尚、ネパール人は「労働者」として世界各地にコミュニティを作っており、そんな彼らもこのダサインでは心を故郷に向けます。


 澄んだ空にヒマラヤが覗いた今年のダサイン・メインデーには、幸せと健康を祈願するティカが年長者から授けられ、親は子に、


 そして、世代を超えて孫に、


 夫は妻に、その想いを伝えていきます。そして、この祭事に対する行為が何百年、何千年と連続的に続き、ヒンズー教という民族宗教の土台となります。


 異教徒である僕にも年配者からティカを授けられ、いつでも帰ることの出来る心の「故郷」が出来ました。絶対的な経典のない「家族主義」であるヒンズー教はこのような形で他者を受け入れてくれるのです。

 皆様に少しでも多くの幸せが訪れますように。


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ネパール記目次
(6)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(下)
(8)カースト制度とエスニシティの考察(上)宗教の習合

2016/10/11

ネパール記(6)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(下)

 茶畑が周囲一帯に広がる紅茶の一大産地を訪れた僕は、翌朝から早速工場周りをし、その出荷に至るまでのプロセスチェックと、蒸しり立ての茶葉を使用した紅茶のテイスティング。素晴らしい芳香が立ち上がり、僕の鼻腔をくすぐります。


 しかし、そんな貴族的な言葉を発する余裕があるのも最初の数杯だけ。みっちり詰めたスケジュールのなかで、半日を使い、訪問工場数5つ以上、飲んだ紅茶緑茶は約30杯。途中からトイレを行ったり来たり、更に胃は完全に荒れている状態で、軽食すら口にする気力が有りません。


 そして、そろそろ次の隣地に行く時間、今度は別の人間が僕を迎えます。そして今いるパートナーに次の正確な場所を聞いたところ「バスで1時間半」と答えが返ってきました。しかも下記マイクロバスです。強烈な尿意が襲い、且つ胃が極度のまでに荒れている今の僕に、見知らぬ地まで山岳地帯を一人1時間半バスに乗れ、と。


 ネパールでは頻繁にバスの転落事故が起きます。それは標高2,000m近くになると気象の変化が激しく、10分単位で天候が変わり、濃霧による視界不良がその主な原因となります。


 これは以前訪れたネパール北部、チベット手前の「ハイウェイ」ですが、このような視界も、一瞬にして、下記のように一切の視界が遮られます。


 そして不安大的中。僕が今回マイクロバスに乗ったちょうどその時間帯に濃霧が立ち込め、途中から完全に視界不良。更に襲う尿意と荒れる胃の状態。そして道路状態は劣悪。五臓六腑が上下左右に揺れます。小便ぐらいならこのバスのなかで漏らしてやろう、と。


 S字の下り坂、速度を上げるバス、気付けば数メートル先から突然現れてくる対向車。そして、ほぼ毎回接触寸前となり、そのたびに思わず恐怖心から呻き声が出ます、「うっ・・」と。万が一でも接触しようものなら崖から一気に数百メートル転落します。脳裏をちらつく「死」、その恐怖心を解くために、接触事故が起きそうな直前に静かに目を瞑る僕。目を明ける数秒後に何も起きていないことを毎回祈りながら。



 何とか隣の村に着いた僕は変わらぬ景色と茶畑を見ながら、同様、工場巡りを致します。その二日目の夜、遠くから確実に聞こえて来る「重心が低い音」。ホテルスタッフに「ここにダンスクラブがあるのか?」と聞いても帰ってくる答えは「No」。そんなはずはない。紅茶しか取り得のないこの村で絶対に何かが起きている、その第六感を信じ、暗闇のなか音源を辿って行きます。


 突如、屋外クラブが出現。事情は全く分かりません。村の小さな子供まで集まって来ます。


 途中からドンドン若者が集まってき、独自の踊りに興じます。


 更にムードは最高潮に達し、全員踊り狂います。



 ローカル美女も次々と参戦します。


何て日だ、どうなっているんだ、この紅茶の村は。いまいち事態を把握出来ていない僕は、アルコールが入り、殴り合いの喧嘩をし出した若者を見るに危機を察知し、暗闇のなか、ライトを照らしながらホテルに戻ることとなります。


 翌朝、僕の目に映るこの長閑な風景と、昨晩からの状況を理解しようとする脳の神経が結局結ばれないまま、マイクロバスに乗りカトマンズに向かうものの、途中、「カンチェンジュンガ」という印シッキム州に聳え立つヒマラヤ山脈、第三峰の氷河をハッキリと肉眼で見たときに、僕はネパールに来ていることを再度認識するのでした。


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ネパール記目次
(5)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(上)
(7)雨季の終わりを告げるダサインと家族の宗教的価値

2016/10/04

ネパール記(5)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(上)

 「基幹道路を通る大型バスの20時間と、山岳地帯を抜ける小型バスの12時間どっちにする?」とローカル・ビジネスパートナーに聞かれて、迷わず後者を選択した僕。この国の最大の課題は物流にあることを知っているからこそ、敢えて難所を通り、自分の目でその道路状態を確認、最低限のデータを毎回取っています。朝5時、カトマンズ端の真っ暗なバス停に一人赴き、下記のマイクロバス(ハイエース)に乗車。これから紅茶を探し求めて500キロの長い旅が始まります。


 途中このような壮大な景色が見れるところを通るも、常に気になるのは道路の舗装状態。予想以上に良いので、徐々に気分も高まって来ます。


 しかし、バスのなかは極めて退屈。更に後ろを見ると全員窮屈。これで12時間は前途多難だな、と。しかし嘆いでいても始まりません。ただひたすら耐えるのみ。


 このバスは標高1,350mのカトマンズを出発し、ネパール記(1)でお伝えした南部「タライ」にあるマヘンドラ・ハイウェイに出て、それをただひたすら東に進み、最後は一気に山を駆け上がります。気温差がとても激しく、バス内では着替えも必須になってきます。例えば出発時の気温は明け方だったということもあり、20度を切っているなか、途中「タライ」では35度前後になり、最終的には15度近くにまで下がります。また揺れも相当あるので、マイクロバス内で嘔吐している乗客を頻繁に見かけるため、休憩時の食事も全部スキップ。


 ようやく何とか目的地に到着、ここは「ダージリン・ティー」で有名なインド西ベンガル州に隣接するネパール領土で、紅茶の一大産地。目の前に広がるのはダージリン地方。地図にはブータンまで含まれます。左に旋回するとヒマラヤ山脈、そして辺り一帯は茶畑です。標高は2,000m近くととにかく寒く、この地域の主な宗教はチベット仏教となります。


 また、地方遠征の際に必ず行うのは、日本では登山時に使用しているGPS機能付きの時計で拾う「物流データ」の取得。今回は一つ手前の箇所で降車したというのもあり、12時間20分、440kmの旅。


 休憩時間が含まれているので平均時速は余り重要視しませんが、最大時速は103kmを計測しました。100km超えは良好な道路の舗装状態が長く続かない限り出ない数値なので、本人としては非常に満足。


 今度はこのデータをPCと同期させ、より詳細のデータ内容を確認します。今回の標高移動は下記となり、


 例えば、カトマンズから279km地点での標高は200mを切るなど、中盤以降は平地を走っていることが分かります。標高以外にも時速や温度等が記録され、それを組み合わせることで各種物流データを多角的な観点から分析することができます。大変地味ですが、この作業の積み重ねで道路の舗装状況や渋滞情報、更に工事の進捗状況が確認でき、他のデータと組み合わせることで、以降、更に有益な情報に変わります。また、同様のデータはスマホのアプリからでも確認でき、



 今回取った進路が「ビハール州」に面したインド国境沿いであったことも容易に分かります。次回、人生史上最も過酷であった今回の地方遠征の内容をまとめてみたいと思います。


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ネパール記目次
(4)中印が同居するカトマンズ・ナイトライフ
(6)紅茶を探し求めて500キロ、マイクロバスの旅(下)