2016/09/17

ネパール記(2)10年前の経験と10年間の変化

 ネパールにおいて僕に優位性があるとしたら、10年前に半年間の現地駐在経験があること、そして以降、現在に至るまでの10年間の変化を体が覚えているということに尽きるのだと思っています。正確には9年前の2007年、大手自動車メーカーR&Dの元経営陣の一名がスピンオフをし、メカニカル・エンジニアをグローバルで育成する事業会社をタイとネパールで設立、ネパールでの現地マネジメントを任されることになりました。それと同時に勤めていた会社を退社し、独立。国としてほぼ完成されていたタイとは異なり、ネパールは誰にとっても未知の国。特に2007年は内戦終了翌年、その影響が色濃く残っており、「投資」という概念すらない本当の黎明期であったと思います。

 現地マネジメントと言えば聞こえは良いですが、とにかく人材集め含めて全てがゼロベースからの立ち上げ。そのなかで同時に走っているタイ支社とA/Bテストを行う切羽詰った状況でした。テストの内容は同レベルの偏差値を卒業した新卒の学生15名に対し、同期間、同教育プログラムを提供し、最終的に日本にエンジニアとして来る人数を競うという極めてシンプルなもの。ネパールではカトマンズ大学と連携し(追ってトリブバン大学)、成績上位20名を面接し、採用活動を行うことから開始。コンピューター中心の事業であるにも関わらず、電力不足で一日数十回停電する日々。ボスは「戦後の日本を思い出すよ」と常に笑顔でしたが、僕は環境適応だけで必死でした。それでも頑張れたのは15名の若者が途中から自分の弟のように映り、「世界の全てを知りたい」という貪欲な目、彼らの熱量に僕が負かされたからだと思います。

2007年、駐在最終日前夜の送別会

 A/Bテストの結果は当初の予想と真逆のタイが1/15に対し、ネパールが14/15。要因は幾つかあるかと思いますが、タイは既にエンジニアが活躍出来る環境にあったこと、日本に来る絶対的な理由が不足していました。ネパールは査証取得ですら困難のなか、外国で働ける機会を絶対に逃したくないという強い気持ちにあったと思います。この14名が正規ルートで日本にエンジニアとして来たネパール初のケース。その後、クライアントであるネパール支社は事業規模が10倍となり、メカニカル・エンジニアリングのオフショア会社として現地でも有数の企業へと変貌を遂げました。

2007年、カトマンズ「タメル」地区の風景

2016年、同地区の風景

 道路状態が改善されたこと、高層マンションが建ち始めたこと、ソーラーパネルが備え付けられたこと、排水設備が多少良くなったこと以外にはカトマンズの街並みにこの10年間特段大きな変化はありません。しかし、唯一大きく変わったことがあります。停電の頻度が圧倒的に減ったことです。



 ネパールでは今でも毎日「計画停電」があり、その時間帯は下記写真に見られるように最少電力での運用となります。




 10年前はこれが「ロウソク」でした。しかし、今はジェネレーターの普及により、計画停電下でも電力が通る状態になっています。また中国による水力発電所の投資建設ラッシュにより発電量そのものが増加し、供給可能な電力量、備蓄電力量も合わせて増加、10年前と比較すると一切のストレスを感じることもなく、またそれが数ヶ月単位で改善していくものですから、この国の電力問題もいつか解消されるのだと感じることが出来るにまで至りました。ネパールを再訪した2013年頃ではノートPC、タブレット、スマホ、ガラケー全てのデバイスの電池が一時的になくなっていましたが、翌年はタコ足配線があれば必ずどれかのデバイスは生き、昨年からは全てのデバイスが常時電池が残っているという電力供給環境が劇的に進化をしています。

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 2006年の内戦終了以降、高いGDP成長率を維持するネパール、物価上昇率は2~3倍に対し、僕の元部下の給与は当時比約10倍、なかには新車のフォルクスワーゲンを首都カトマンズで乗っている者もいます。また、水力発電の設計は現地の大学で必修科目になり、現地起業家が飛び付く人気のビジネス。意気揚々とし、夢を抱く若者が圧倒的に増えました。一方、変わらないのは農村部。富める者はますます富み、貧しきものはますます貧しくなる、そこに大きなチャンスを感じながらも、この国は一体どこまで成長していくのであろうか、そんな期待をいまの僕に抱かせてくれています。


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ネパール記目次
(1)ヒマラヤだけに非ず、ネパールの魅力と発展の可能性
(3)トリブバン国際空港の限界と中国資本による空港戦略

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